概略
1世紀にわたる業界首位 エストニアで生産されるウォッカの歴史は19世紀、1875年にさかのぼります。この年、プロシア出身のフリードリッヒ・ラプーンは、この地で本格的なスピリッツの工場を建設しました。当時、タリンの執政官から許可を得るために彼がどのようなことをしたのかは 誰にも分かりません。—その5年前に、エストニアの伯爵が同様の申請をしていますが、にべもなく却下されています。 工場の建設は、非常にうまくいき、同年11月にはローマ風の長い平屋建ての向上が完成しました。この建物はタリンの中心部からほど近いMere Puiestee地区のはずれに現在も残っています。 翌年の9月には早くも、最初の1リットルを醸造することに成功しました。起業家たちはすぐさま利権の匂いをかぎつけ、 Tallinna Piirituse OÜ という会社が速やかに設立されましたが、 取締役会全員がバルト-ドイツ人の高貴な地主たちでした。ただ1人を除いては。このただ1人の例外が先に述べたフリードリッヒ・ラプーンです。そのことは後になって露見するわけですが、彼はよそ者でありながら、まんまと市の役人たちに一杯食わせたわけです。 この会社はまもなくサクセスストーリーの1つとなりました。 1878年のパリ万国博覧会で「かなりの注目」を集めた事実からもわかります。 1893年までにエストニアにスピリッツ工場を 168箇所、 リヴォニアに24箇所、クールラント公国に18箇所を展開し、モスクワに取引用の倉庫を、リガ、ワルシャワ、ロストフオンドンには営業拠点を構えました。 1895年には、ロシア全体にまたがる企業となり、本社はセントペテルブルグに置かれました。 Rosen & Co 当然のことながら、タリン・スピリッツ工場のオーナーが所有する Rosen & Co, もまたグループ企業でした。 1895年にRosen & CoはMere Puiesteeの工場の賃借を開始、まもなく生産が開始され、Rosen & Co は帝政ロシア全体で最も生産量の多い会社となったのです。 ローゼン社のお酒は飲用だけでなく、ロシアの火薬工場からも購入されました。また、労働者の数が少ないことも驚くべきことです。1899年に、会社が雇用したのは労働者35人、熟練工2人、事務員7人、工場主任1人、工場長1人だけでした。 1900年、バルト地方にロシアのウォッカ国家専売法が施行され、Rosen & Coは大打撃を受けます。 リュブリン、リエパヤ、 ベンツピルの支社、モスクワ、オデッサ、シンフェロポール、ワルシャワ、ミンスク、リガその他多くの代理店は閉鎖されました。
アーベド・ローゼンは長い間、会社のリーダーを務めましたが、1903年8月7日の夜に亡くなり、 弟が跡を継ぎました。弟のアレクサンダー・ローゼンも会社のために長い間、尽くしました。 工場はアレクサンダーのリーダーシップにより再び活況を取り戻したのです。第一次世界大戦が終結した後の会議でアレクサンダーは「ひとつの世界が終焉を迎えた。我々は新しい世界を創造しなければならない!」と演説しました。このことは、アレクサンダーの熱意を最もよく物語るものと言えましょう。 エストニア共和国の誕生後もローゼンの会社は活動を続け、同国の粗スピリッツ製造工場の半数以上を手中にしました。また、製造工程において、さまざまな改革が行われました。たとえば、経済的な理由から、リキュールとアルコール度数の高いお酒の専用工場としてTallinna Viinavabrik (タリン・ウォッカ・ファクトリー)が建設されました。 開設当初から、この工場は成功を収め、その製品ラインアップは非常に幅広いものになりました。 海外に輸出されたボトルのラベルには「バロン・ローゼンズ・ウォッカ」と書かれました。海外の愛飲者のうちでも最も有名人は、著名な英国の作家、ハーバート・ウェルズでした。 1927年1月、Rosen & Co香水部門が設立されました。この部門は、豊富に製品を取り揃えました。「Poudre de Ris」 (笑うパウダー) や「Kolmekordne kölnivesi」 (トリプル・オーデコロン)などがあります。同社の製品ラインアップは1940年初めには、ローゼンの名を冠したものだけでもRoseni konjak (ローゼン・コニャック)、ブランデー・ローゼン、ポメランツ・ローゼン、ウォッカ・ローゼンなど、20ブランド以上にも及びました。 戦時下でも酒を求める人々 1940年夏のソビエト連邦による占領が行われ、ローゼン・ウォッカの製造は国営事業となり、E.S.S.R(エストニアソビエト社会主義共和国)の軽工業国家人民委員会の傘下に入りました。経験に乏しい経営陣に変わったことから、高級ウォッカ部門の原料がほとんど手に入らなくなりました。 それまでは93種類(!)もの原料とスパイスを使用していたのですが、20数種類にまで減ってしまったのです。 当時、ソビエト連邦では、ボトルが不足しがちでしたが、これが、エストニアにも波及し、ウォッカ業界も例外ではありませんでした。酒屋では空のボトルを持ってきた客だけにアルコール類を販売していました。 ナチスドイツによる占領にともない、工場の責任者には、かつての会計主任で、ドイツから帰還したパトリック・フォン・デリィングスハウゼンが起用されました。ドイツ語で書かれた新しい看板が工場の門に掲げられ、ウォッカの製造は続けられました。同工場は1942年の最後の3ヶ月で、34,171リットルのスピリッツと上質のウォッカを生産しました。 ドイツ人主導の製造は彼らが1944年に撤退する直前まで続きました。ドイツ人の撤退はあまりに突然であったので、彼らは製品を持ち去ることもできず、製造機械を破壊することもできませんでした。また、政権が変わる際にも、窃盗、強盗、機械類の破壊などは起こりませんでした。唯一の事件としては、酒を求める人々が工場の敷地内に侵入したことぐらいです。 ワシリ・ヴォルク (Vassili Võrk)大佐が工場の警護に当たり、侵入者には発砲せよと命令しました。3名の侵入者が射殺され、その後は侵入を試みる者はいなくなりました。 リビコの誕生 19世紀の終わりに、エストニアを支配していたロシアがウォッカ国家専売法を施行しました。これにともない、1898年9月25日、ロシア皇帝の命により、タリンにKroonu Viinaladu (国家スピリッツ販売所) が鳴り物入りで開設されました。それ以来、現在までこの建物にはASリビコの生産部門が置かれています。この日は、ASリビコの誕生日とされています。
第一次世界大戦の後、 Likööri-ja Napsivabrik (リキュール・アンド・ドリンク・ファクトリー)が独立した生産部門として設立されました。幅広い製品ラインアップと優れた品質がエストニアのみならず、海外の固定客をとらえました。バロン・ローゼンズ・ウォッカの最も有名なご愛飲者は、英国の著名な作家ハーバート・ウェルズ (1866-1947)です。彼は1937年にエストニアを訪問してからウォッカの地酒の崇拝者となったのです。第二次世界大戦後、2つの工場が合併国営化され、Tallinna Likööri- ja Viinatehas (タリン・リキュール・アンド・ウォッカ・ファクトリー)と名付けられました。 ソビエト時代を通じて、同工場は国内の需要を満たし、国中の人々の渇きを癒しました。ご存じのように人々のお酒に対する渇望は非常に強いものです。こうして、年々アルコールの生産量が増加していきました。 20世紀を通じて小さなエストニアという国で、目まぐるしく政権が変わったことによって、リビコの歴史がドラマチックで色彩に富んだものになったと思われる方もあるでしょう。しかし、実際のところ、ウォッカ工場の支配権はすべて大きな問題もなく委譲されたのです。 1971年1月1日はエストニアのアルコール生産の歴史において重要な日です。 この日はTallinn Likööri - ja Viinatehasや多数の小規模スピリッツ工場から生産協会リビコが設立された日なのです。この日、新しい伝説が生まれ、それは現在まで、ASリビコによって生き生きと語り継がれています。リビコはエストニアで最古のアルコール飲料メーカーであり、今日でもその市場リーダーとしての地位は揺るぎないものなのです。 |